比較宗教学
(2025.1.26)
難しい話はさておきまして、経典として『聖不動経』を読経時に用いるお経として注目しています。
自身の解釈の要点を示しておきます。
『聖不動経』
「佛説聖不動経」とする場合が多いが、仏教宗派に伝わるお経だから。大乗仏教が仏説かどうか不明、恐らく違うのではないか。故に「佛説」を付けない。又は、”このように解釈する”という話なので尚更つけない。
爾時大会 有一明王
「爾時大会」 仏法聞き難し。にもかかわらず貴重な出会いがあった。という風に読める。「有一明王」を「ひとりの明王あり」と読むと、一人というのが人間の数え方である。動物だと一匹等、人間は一人。それを前提として「ひとりの明王あり」を解すると、修行者が不動明王になったという解釈も出来るが、明王を「法」として「有一明王」とすれば三相の有に相当する。この解釈は大乗仏教には無い。
無相法身 虚空同体
「無相の法身、虚空と胴体なれば」 のように読み下しますと、無相の法身は虚空即ち空と同じである。という印象を受けます。大乗仏教と言っても色々ありますが、大乗ではそれで良いのかもしれないが、ここは、
「無相法身」 法身つまり不動明王尊は無相なり
「虚空同体」 不動明王尊は虚空と同体なり
と解す。つまり読み下しません。経の冒頭から、「にじだいえ、ういつみょうおう…」と読経します。
無其住所 但住衆生 心想之中
「無其住所」 修行者のこと
「但住衆生 心想之中」 但を「但し(ただし)」と解する。但から唯、只のように(ただ)と読んでしまうと、
但住衆生 心想之中 「ただ、衆生の心想の中に住している」と、唯識論のように解される。唯識論的な解釈は用いないので、無其住所、但し(ただし)…という風に読む。
/
「無相法身」の後に句点を打った方がいいような気がしてきますが、ここはお経がこのようになっている(私が所有している経が)ので保留します。句点を設けないことによる意義も当然考えられるからです。しかし、句点が無いことにより、「無相は虚空と同じだ」と読んでしまっているように思われます。しまっているというか、解釈が大乗仏教と違います。
(句読点は特には気にしない)
本経は短いながらも内容に富んでおり、解釈し直せば問題点は無いと思われます。私が自分で、比較宗教用のお経を作るという事はありませんが、要するに、「これはどうなのか?」と内容に疑問を抱くようなお経は、有名で歴史的に定着しているようなものであっても使わないという事です。
(2024.3.17)
先に自身が中庸を極めたわけではない、と申しましたが、これだと「極めたのが修行者でそれより全然下です」という意味合いで、そのような主張をしていると受け取られかねませんが、私という人間は劣っておりますけれども、ここではそういう意味ではない。物事を極めたわけではないと申しているのでして、高僧やシッダ(を否定も肯定もしていない)より下であるという事には言及してない。(私は誰からというまでもなく劣っています)
中庸というのは、定義によりますが「過不足ない」「ほどほどに」という意味なので、極めるというのも何か乖離してしまう感じですし、極めなければ教師になるなというのならば、教師の数が過不足無いというか不足してしまいます。さらには、比較宗教というのは王権の宗教であると申しましたが(王が話を聞く、持って来た諸宗を比べる事から)、道を極めるともはや比較宗教ではなく、教え(宗教)になる。何故、道の大成が他の劣っている教えと比べさせるのか、イマイチよく分かりません。ゆえに、この意味合いから、比較宗教とは中庸なのです。中庸=中道として使われる場合もあるでしょうし、どのような意味合いで使われているのかは重要です。ゆえに、私が事実当然大成より劣っておりますが、比較宗教自体は劣っているも何も、「劣」ならば何が「勝」たる教えか判別出来ませんので比較します。(劣・中・勝)
盤の段位の考え方で、中国の皇帝や老子を中程において修行大成者より下位に置いているのは何故だ?納得出来ない、と思った方もおられるかもしれないが、そういう事です。武道を極めるというのは、武道を通じて物事を極めると解してもらって結構。武道というのは空地だと法的な保護も無いわけだから殺し合いに至る。「死合いもしないで口先だけで語るな」となるのです。それが武道です。私が説いているのは文武両道です。
(2024.2.25)
「龍」は、時には地形であったり財宝であったり、あらゆる人々の求めに応じる存在として「龍神」とは、そのように解釈されるべきです。様々な状況下において龍を我がものとせんと欲するのです。 皇帝の象徴、神格でありますから、一方(現世、統治下)だけを見ているわけではなく、天方向(修行)にも配慮して、在位の終局に禅譲するという理屈になりますので、龍神は万世に開かれている存在である道理です。
*実際の中国の古代皇帝はどうであったのかと考える。又は、ゴーダマ・ブッダの出家時の物語等と比較してみると、興味も沸いてきます。
神様には、どう考えても向き不向きがありまして、例えば、仏様に、自国が対立している国家の敵将の暗殺の成功を祈願するというのも、その国が仏教を信奉していたのでしょうか。暗殺が成功し「仏の力によって勝利した」とは言うものの、ピンと来ない感じです。欲深い理由より「大金持ちになりたい」と仏様に願掛けをするというのも、仏教の教理的に違うような気がします。
空地としての修行林を顕しましたが、受与余物の”権利”の箇所なので、修行権というのは人権でありますので、他の人権と衝突する際には調整が必要です。単純に考えて「出家せよ」とおっしゃっているので皆全員で出家したら、労働者や官僚機構が崩壊するので国が維持出来なくなります。「別に国に執着する理由などない。そうなって良い」とは言うものの、確かにそうなったらなったでそれはそれで結構な事ですが(極めてなりづらい)、ここで注意したいのは権利であるがゆえに、修行林へ出家する時期の設定、推奨を国家への労働時期諸々と衝突しないようにします。インドでもそのような人生を何期かに分ける思想がありましたが、ゆえに「労働引退後は出家するのが好ましいと推奨する」という結論に至ります。もう労働しない老後暮らしですし、子供も独り立ちし、妻にも邪魔にされているなど。邪魔にされておらず一人にされたら寂しいと主張するにせよ、人間は必ず老衰して死にますので、若くはない夫婦の別れも間近です。死が近しい年齢帯に死行を勧奨保護するのが、基本人権として良いのです。夫婦となるのも、独身者のまま出家するのも、夫婦となった後に別れて出家するのも、共に自然の流れなのです。
*視点が私なので男性寄りでしたが、例えば、夫婦で人剣を行いますと、在俗生活が修行となり、意識が高ければ出家前の準備修行という位置付けとなります。
”権利”として、強烈に若い時期から出家を推奨するというような事をやると徹底的な反発を招きます。若い時分から出家するのも自由(権利)というような解釈でして(就業の自由よりもそうなる)、「若い時から出家しないと到底上の階梯には辿り着けない、結婚すると修行の足枷となる」というような主張は、それは権利ではなく「明暗の托鉢」の話です。政教分離上よりもそう解釈されるべきです。
(2024.2.16)
文武両道の極意について
文武両道というのは文と武が合一し相乗効果を示すというものです。私は中庸を極めたわけでは全くありませんが(中庸の続く道を「中道」と解す)、文武両道が大体見えるという事は極意も分かるという意味です。つまり「武道の究極はこうだよ」という事も示せます。私も忙しいので、この話題で終わらせましょう。
私が考える武道の極地とは「波切不動」です。これは真言密教の教説ですが、「どうして空海は間違っていると言っておきながら、自信を持ってそうだと思うのだ?」と思うかもしれませんが、それが文武両道です。
まず、風水盤を使用して、以前に段位の話がありましたが、テキトーにやらずきちんと段位を設定しましょう。つまり「心技体」の合一なので、人間界の最初の配置(東に「火」)からスタートする場合は計八段とします。このように段位も盤で考えまます。ここで「火」の段位を考えますと、修行により通常ならぬ上の火力を得た事になるので「烈火」と表します(この段位で火力が頭打ちという意味では全くない)。この意味合いならこの名称にこだわる必要はない。さらに、「土」「風」と進みますが、ここは私がどう考えているかは伏せて、「水」に至るわけです。八段で極めるならば老子の思想は重要ですがその先があるので(老子が示したのは中程度として)ここが「水龍」です。流水より武道ですのでその流れを「龍」で表現します。ブルースリーの話を思い出したかもしれませんが彼がこのレベルなのかはさておき、中国の古代皇帝(要するに皇帝)は龍で形容されるので、この段位では龍にちなんだ技の名前が「名」として相応しい。次の段位も伏せますが、最終的には「波切」と「不動」です。「別に波切に答えていないではないか?」と思われるでしょうが、(文武より)皇帝がお姿を現しになられたので天門が開示されます(老子)。ゆえに盤が逆転し、水流が一周する形で上側に昇っていく事になりまして、これは天へ昇る飛翔龍を示していまして、「波切」は「不動」の一歩手前なので、「風」により水龍を斬る事になります。これが「波切(浪切)」です。龍が天を昇り切った(天とは何かを完全に把握した)状態が悟りですので(涅槃の教理の否定ではない事に注意して下さい。ここでは否定も肯定もしていません)、水龍が地上(要するに下方に)へ降り注ぎます。これが「慈雨」です。境地が「不動」です。
つまり、これが武道だよという事です。段位(段意)は全て示せますがひとまず伏せておきます。
ちなみに自分では、一〜三段でどれかな?と、三段もないかな、と思う(十段で考える場合は、「烈火」以前の入門用に二段取ります(入門、盤に入る前))。武だけなく文武の段位ですので、ただ「水龍」でお分かりと思いますが、この段位は武道を相当極めないと龍の技を使える、とは到底言えませんので、四段では絶対無いです。一段…そんなに気力が旺盛かな?とか、自分で考えていますが、「龍、龍の技」が実際でも、映画でも創作漫画アニメ等でも登場しますので、この観点から考えてみて、諸君が文武の道を進む機縁にでもなってもらえれば、と思います。
なので、他の武道のように簡単に段位が上がりません。「よし八段だ」と「ホントかな?」となります。
*これが教学で(流派で用いる)「形」となります。
ですので、現役時代はパッとしないサッカーの監督のように、ある程度の指導は出来ます。しかし、私が修行中の身なので基本的に指導などしません。私の思想は書いてあることで全てです。この上ないほど分かりやすいように伝わるように書いていると自分では思っています。
(2024.2.15)
長くなって来たので比較宗教でもブログを作ろうかな…。というか、公部の私の得物(真剣の事)は特に決めてなかったというか、「日本刀」でいいかな?と思ってたんだけど、イメージが剣道っぽくなったら嫌だし、実際にはホントに実戦で闘う場合は(無いだろうが)可搬性の観点からも特殊警棒なので「特殊警棒」にしようかな。一応得物は必要なんですよ。人剣練習をその得物に帰着させ各自取り組むというか、比較宗教のように得物は決まっておらず「人剣」としている。
私の殺刀に関する見解をくれぐれも注意し誤解が無い様にして欲しい。動画を見てみても、大勢の日本刀の剣術家が撮影して技を披露しているけど、中には真剣勝負が出来るんだったらやりだすのも居ると思う。考えてみれば「お前さぁ、勝負も受けないのに、胡散臭い道場出して剣術語ってんじゃねーよ、この腰抜け野郎が」「受けない。つまり下手って事。ど素人の証。日本刀語る資格0%」「最低のアホ。口だけ。金返して」「武蔵でないと真実に辿り着けない」とか、(法が許容したとして)真剣勝負をやっている奴や運営組織に挑発されたら、誰かしら多分受けるんじゃないかな?
*殺刀の特性上、殺気も集まるし↑こうなる。法律が可能なら、ヤクザが興行として運営したり、この挑発してくるのが新撰組だったとしたら…。つまり、日本刀の剣術道場とは理というより法律によって保護されているので、現況を維持しているという事になる。剣道ならまだしも、日本刀の法理や術理の道場を運営していると誘われるのではないかな。いかにもヤクザが巨額のファイトマネーを出して「天下統一」とか「侍」の興行をやりそうだ。
「文」の方は特に言及が無いが、軍法とか戦国策、暗殺術のような類の学問が、殺の学という事になる。でも、別にその学問を経由しないと、他の学問へ移行してはダメとかそういう縛りはないだろう?
「相手に与えるダメージを減らす方向で(相手の修行の邪魔をしない。最悪は大怪我、死亡させて終わらせるという事)、修行の成果を示す事が出来、それ自体が修行で効果が上がる」という点が大事だ。なので武道の流れだと、効果的なプロテクターを使用した競技がいいのでは?と、帰結する。キックボクシングで強い人にやられたら、プロテクターも無いし怪我で済まないかもしれない。この不殺武の考え方が、今まで無いかあまり意識されていないだけだよ。プロテクターだったら、かなり力を入れて打たれてもそんなにダメージは無い。
(2024.2.15)
私も、政治家や警察官等を又は絡まれた場合はチンピラを(チンピラの場合は得物が仕込んであればの話ですが)、日本刀等の得物は違法になるし目立つので、特殊警棒等で仕留めるシュミレーションとかもした事あるんだけど(ちょっとだけだけど、ホントです)、政治家というのは要は近距離に入って来た人間と捉えて良い。
別に放置され孤立というか誰も絡んで来ないし、リンチだったら100%死ぬだろうし意味無いかな、と考えたりした事もあるんだよ(護身用の杖とか常時持ち歩いた方がいいのかな?いや大して誰も来ないか…目立つしやめようと)。大したレベルではないが、下の心起流と関係無いけど(いや私なので関係あるのかな)、警棒を抜いてから相手のどこどこに入れると決めた場所まで、スピーディに入れるというただそれだけの技で、最悪者の政治家や警官とかだから卑怯もへったくれも、相手の後ろからでもOKとかそういう外道技なんだよね。
↓誤解があるかもしれないが、現代の日本刀剣術の先生がダメだとか言ってるわけじゃないよ。しかし、いくら強そうな感じでも、真剣勝負だと緊張して手元が狂う場合があるし、例えば、相手が新撰組の近藤勇だったら、怖くてまず平常心で応対出来ない。なので「証明してくれ」みたいになって、法律で許されるなら、そういう思想家はデスマッチとか真剣勝負をやりだすんだよ。人に言われる前から強さを求めてやるとか。殺されたらもう天界探訪の研究が出来なくなる。
(2024.2.15)
人剣と剣道の違いについて
高野山大学の論文で修行道場について書いた事があるのですが、その際「剣道」に言及しておりますが、私が主に行なっておりますのは「人剣」です。立場環境上、人剣の話を論文で書くのも億劫という事で「剣道」になっているだけです。人剣を主張する主たる理由は、「警察等に段位認定して欲しくない」「上の先生が警察なのが嫌だから」「警察のイメージになるの嫌だ」等というのはもっともであり立派な理由だと思いますが、このような政治的な理由だけではありません。
よく、剣道についての意見で「当てっこである」「スポーツだ」などというものが見られまして、これは要するに「剣道と真剣の剣術は違う、乖離がある」という事を言いたいのです。昔の剣道はもっと斬る動作を意識していた、剣道と居合道を共に修学しなければならない、等そういう話です。これは剣道が侍の真剣、日本刀ですが、その武術の練習用途として考案されたのが剣道防具ですので、剣道というのは結局の所、「日本刀を用いる武術の練習に用いるもの」という思想から逃れられません。日本の剣道の「剣」は日本刀であり、他国の刀ではないのです。
剣術の有名な流派に「心影流」がありますが、どういう事かと推測しますと、「心を修練して、強くなって、斬る」という意味です。「斬る」という理屈は殺刀の理屈ですので、ここが重要です。心の修練の目的が斬る事なのです。それは捨てたものです。人剣は不殺刀となっています。つまり剣道というのは日本刀で斬る行為に繋がっています。日本刀剣術の流派などは、昔も今現在でも殺刀の理になる訳で、ならば"それだけで"殺気も入ってきます(己には殺気が無くとも周囲からとか)。それに、現在ですと修練して、一見型も美しく見事だし隙もなく凄く強そうな先生に見えても、真剣の勝負は法律で禁じられていますし、「真剣術なら実戦を経ないと得られないものがあるのではないか?」という結論に至ってしまい、確かに、部のアイツは、剣道の練習では凄い強いが大会に出ると何故か弱いという話もありますので、現代の日本刀の剣法を語っている先生が、例えば、当時の新撰組に入って活躍出来るのか?と考えてみても推測の域を出ません。結論として、行き着く所は宮本武蔵の様な感じになります。武蔵に関しては彼が五大や天を語っていたので、私も彼に言及したのです(「天方向ではない」)。
*なので、「心起二天一流」だったのですが、「武蔵と関係ないよ。直してあげたよ」とは言うものの(二天は文武という意味合いだった)、挑発的過ぎ誤解を招くかな?と、ファンに絡まれそうですよね。さすがにそれは無いだろうと。それで文武両道(文武合一が重要な教義です)の不殺刀剣術流派「心起流」となっているのです。「風流会」というのは本流派の集まりで風水盤を使うという風にでも理解してもらえれば、「心起」というのは、精神領域への拡張円錐を使用するという風にでも捉えてもらって、基本的に日本刀の剣法流派は私からは外道で何も関係無いです。
*素人がリングに上がったら殺されそうな印象のハードな格闘技も真剣術と似た方向性です。デスマッチではないが、リング上の怪我、及び損傷蓄積で死亡する場合があります。
*ちなみに、当時は居たのか、お坊さんで仏道修行の傍ら日本刀で真剣勝負を行うというのは、完全に破戒が明らかでもう僧ではありません。それですと外形だけお坊さんです。
以上を踏まえ「人剣」というのは竹刀や剣道防具を代用品として使用して行うにせよ、発想が違うのでうす。剣道だと上記説明より「斬る」の流れから、色々事情があって今の打突部位となっていますが、
人剣だと「斬る」からではなく、「日々のもしくは比較宗教修行へ効果の検討」より打突部位を勘案します。剣道の場合、面を打つ場所は竹刀の根本の部分を用いません。しかし真剣勝負の場合は刀の根本で相手を殺しても当然良いのです。これだと、剣道の一本にはならないし、相手の首をおかしくさせ怪我します。人剣の場合だと"不殺刀なので"「相手の首をおかしくして怪我させない」という所に徹底的に力点が置かれます。「胴の胸を突こう」という話になっても、「この胴では突いたら怪我をするのではないか?」などと考えます。
結論を示しますと、
不殺刀より、「相手に与えるダメージを減らす方向で(相手の修行の邪魔をしない。最悪は殺して終わらせるという事)、修行の成果を示す事が出来、それ自体が修行で効果が上がる」「殺刀が浄化され、"斬るというわけではない、打ち叩きのめすわけではない(斬らないというわけではない)"、という事になります」
*不殺剣流派で日本刀もしくは剣道の流派を語り、非常に強い流派である、などと自称している訳では全く無いのです。理合の観点から、まず言っている事が矛盾してはならない。
*フェンシングでも日本刀でも何でもOKと申しましたが、使うのは現状想定は代用品の竹刀であり、実際のフェンシングソードでも日本刀でも真剣ならば、位置付けは「家宝、宝物扱い」です。真剣の理を考察する時にも使用します。真剣の理の観想とは、例えば「斬らないけど、斬るならこういう事なのかな」とか。剣道とか居合には「斬らないけど」の部分ががありません。
(2024.2.13)
バラモン教、ヒンドゥー教と比較宗教(私部)の違いの例示
有名な身分制度をどう考えるか?
インドと言えば、断然「ヒンドゥー教」のイメージです。仏教のルーツでもあり、ジャイナ教など聞いた事がある宗教も輩出しておりますが、ヒンドゥー教でしょう。
ヒンドゥー教(インド)は、現在のインドでは制度上廃止されていると言われている「カースト制度」が有名ですが、無政策より示した「政教分離」より、この制度は輪廻転生の考えに基づくものですので、外出後に誰かが悟った思想(輪廻)を政治の仕組みに取り入れたのです。外出前(出家、インドで言えば外遊前)に確かな輪廻観を(それが真実かどうかはさておき)、政治の側、街や村の人、在家の側の領域で得られるでしょうか?、街の人が”思いついた”とかではなく、厳しい修行の末にこのような思想を確立させたので(そう考えられる)、本思想は宗教側の領域であると結論出来ます。ゆえに、政教分離よりそのような制度を政治に組み入れるのは、組み入れるように指導した側にも問題がある、と言うことになってしまいます。世界的に有名なマハトマガンディーは「前世が悪かったので不幸な殺され方をした。ゆえに自業自得という事になる。なので、彼は下の階級に存在するのが正しい配分の人間であった。しかし、インドに絶大なる輝かしい功績を残した」などと言われたら、もはや何の事だかさっぱり意味不明で愚かしいです(街中で何か不幸が起きたら全部前世のせいになる、という意味)。確かに、業の考え方だと彼の人生は前世に起因しているという考え方になりますが…。つまり「彼/彼女の生前と死後に基づく政策は円外(極端)」という結論となります。
*「死後」というのは、例えば、四世(四回輪廻する後)後までの安寧を祈願したいので、国税で徹底的に実力者のその目的での記念碑を作ろう、とかそういう政策です。
「(交通事故で)トラックに激しく跳ね飛ばされたぞ…。悪い前世の業のせいだろう。あいつの弟を二階級程度下げとくか…」
↑感覚、裁量的で、全く意味不明です。こういう政治は定まらないし国も栄えません。
さらに、もっと言えば、近しい人間の業を背負ってしまうという事は感覚的にもありそうです。例えば、極悪人の子供が代表例です。父親の犯した極悪非道の重犯罪のせいで、法律だと子供は殺人犯にはなりませんが、街の人皆から忌嫌われてしまう。「私の娘はお前の親父に徹底的に快楽殺人で惨殺されたのだ。お前も死ねば良いのに」と。それが業の観点から孫の代ではどうですか?…ずっと代を重ねて、お前の18代前の先祖は最低だ、と街の人は憎しみを持って罵ってくるでしょうか?、それが時効、風化です。風化とは自然の浄化作用と捉えて良い。ずっと変わらぬ業の報いを家、血縁に背負わせ、それによって何世代にも渡り固定化させた階級制度を用いるのは、業の観点から見ても矛盾しています。それならば、僧になって親の代の汚名をそそぐ等、そういう話が全く成立しない事になってしまいます。つまり、自然にではなく、社会的に人為的に作り上げたレッテルを貼り付けているのです。
と、以上の話を踏まえますと、宇宙原理との合一や自然の理を風水に取り入れているのがインド思想なのに、自然の有する浄化作用を無視した型(家の身分制度)を政治に当てはめて運営している事は矛盾となります。その型(有形)をもって輪廻世界の恐ろしさ、空しさを構成員に想起せしめ、修行力に転用しようというような考え方なのです。
「祭祀の徳」が無いのは何故か?
三徳とは「善行の徳」「学問の徳」「修行の徳」です。神(神々)を祀る「祭祀の徳」を入れて四徳ではないのか?と疑問に思うかもしれませんが、祭祀は他の三徳に依存する高度な二次的な徳と考えられます。極めて愚しい人間が善行を行うと徳となります。愚か者でも真理を示して影響すれば徳となりましょう。同じく修行も行えば徳となる。しかし、全く愚かしい状態で祭祀を行なっても、”祭りの形式だけ整えても”、私は徳が発生するとは思えません。ゆえに、他の三徳に依拠する徳と考えられ、三徳を合わせても三徳の内の一つだけ突き詰めても、ある段階で神(神々)への祭祀を執り行い徳が発生した、という事ならあり得ます。ゆえに「三徳」となります。
以下説明例)
1. どこぞやの現人神に宝くじの一等賞が当たる様祈願する祭りを主催しよう。高級車が欲しい。その際車にちなんで、生贄でよく走る馬を神に捧げよう。という祭りを主催した。
2. 皆の安全を祈願する為に、神(神々)に祈りを捧げよう。祭式としてこれこれの設備を設けて火を用いよう。という祭りを主催した。
1.では、「祭祀の徳」は発生しません。
2.を選んだ場合は、
「馬を生贄にするのは良くない」(「善行の徳」「学問の徳」「修行の徳」)
「馬がかわいそう」(「善行の徳」)
「皆の安全を祈願したい」(「善行の徳」)
「火を用いよう」(「学問の徳」「修行の徳」)
「対象をどの神にしたか」(「善行の徳」「学問の徳」「修行の徳」)
*例えば、「馬がかわいそう」は(「善行の徳」「学問の徳」「修行の徳」)全部だと言えばそうなります。他も考えてみて下さい。
(2024.2.12)
教学について追記二
文武より中間の無政策を取得すると、政策の発現が政策円という理屈です。状況、環境によって政策内容は刻々変化しますが、円内外の指標として考慮されるべき基本は「人倫」です。人倫と言えば儒教が思い当たりましょうが、特に孔子の思想に限定される訳でなく、人倫なので、人としてあるべき道、つまり本能の赴くままに己の行動を制御出来ない動物ではないという意味です。動物界の掟とは「弱肉強食」ですから、まずはこれを否定します。「弱肉強食の掟」は政策円の外です。孔子が大成させた内容は「人としての道」と表現しましたが(政策円の一形と表現す)、老子の言う「道」ではない。
老子の思想は「無の思想」と言われ、構成人数の少ない小村落のような場合だと、文武の政策が、村の防衛等も狙われにくくなり政策円も小さくなります。ですが、不干渉主義を重んじたにせよ、統治形態が存在している以上(村落の長としての老子)無政策とはなり得ない。無政策とは何か?政策が何も無い訳ですから、村の統治を捨てるという意味です(空地)。これが文武両道からの「出世間の理」です。「政教分離の思想」が導かれます。政策円を設定しその内容を考える又は外出する外出後の一連の流れが「空無圏内禅定」です。
教学について追記三
出家者、在家者という区分けはあくまで教団などを運営している状況での区分けです。上の外出者はこの意味の出家者ではありません。在家者が寄付・托鉢等をして出家者を支え見返りに福徳を得る、というような集団は「明暗の托鉢」に該当します。国家としては上の政教分離の観点から「受与余物(再分配、権利)」を中心に据えるべきです。
常非常拒絶
受与余物
(空地)
明暗托鉢
「欲望を修行の力に変える」という話は、明暗托鉢の箇所ではありません。まず欲望をどのように捉えているのかはその宗教団体に依存します。これは授与余物の所の話です。「修行する権利」(空地)は特定の宗教団体に依存しません。外出修行権を行使せず人々を街に留まらせている主たる原因は無知・欲望ですので、有知識により民が(に)欲望を統制し(させ)修行の力に転用しようと試みます。
*民を追い出して(政治的な力をかけて)外出させよう、というのは極端です。政教分離から外れています。
街に欲望を無くさせて人民を徹底的に空しくさせる、というのは政策円の内容考究が甘く一律をもって物事に臨む姿勢では無理が生じます。人口など様々です。街とは欲望の場なのです。
*外出の流れを妨げない様に設計します。
先に私は「欲望を修行の力に変える」箇所で「モデルの道」の話題をしましたが、ファッションモデルとして成功したいという欲望を修行力に転用する訳ですから、例えば断食をモデルに必要となるダイエット行為に取り入れる等でしょうか?、その際、肌が荒れたりしない様な断食でなければならないわけで、職業柄色々事情があるでしょう。
ちなみに女性モデルの場合は、その容姿ファッションの内容によりますが、男性の視線により欲望を浴びてしまっているので(背徳性が強ければ強いほど浴びるとして)、「背徳の海」における浄化配置の研究というのが、"欲望の力の修行力への転用"という風に捉えてもらっても差し支えありません。
このように、街の人達の転用技法を風水盤に蓄積していく訳です。街にある道場で人剣を練習するのと同じ発想ですが(修行道と相性が良いと思って選んだのが人剣です)、「欲望の修行力への転用技法開拓」は学問分野として育つのでは?(着眼していきたい)と思っています。
*「Iシステム」はまだ内容未定です。
(2024.2.11)
教学について追記 「天界探訪」
物理理論は物理学から、心、精神の領域については示したように老子の「無の思想」や大乗仏教等に見られる「空無の思想」に依る所である。どうして私に「特定のイメージ固着してはならない」等が分かるのだ?と思うかもしれないが、基本的に物理円錐の宗教領域(精神)への拡張である訳だから、何かしらのイメージに固着すると、そのスケール上でそのステージに固着している訳だから「見誤った有」に通ずる話となる。「私はそこに有るのだ。ずっとこのままがいいのだ」というのが、精神的にそのステージへの固着、執着という理屈であるから、空ずる事によって上下に円滑となるが、エネルギーの観点上、理論的には上には行けない(上を天方向とす)。ちょっと行くとしても、己のステージの範疇であろう。何故ならエネルギーが無い訳だし、このエネルギーというのも物理円錐と全て統一的な理屈(同じ円錐)で説明しているわけで、物質のエネルギーを精神のエネルギーに置き換えている。人間のエネルギーでどうして大きな大威力の神の天まで届くのか?と、物理では単に大きな世界だが、宗教領域では天界(又は天界の可能性を探る天界探訪)である。エネルギーをどこかで取得しなければ上界には瞑想で行けないと考える(→ 唯識派は何故唯識を主張したのか?)。
あとは、「水」を慈雨と表現したが、人倫の思想もそうだし、慈しみの考え方、心持ちを積極的に取得していかなければならない。
「私に何か直接教えて欲しい」と思うかもしれないが、書いてある事が全てである。空観とは何かな、それを得るとはどうしたら良いのか?等は己でやる事だ。言うなれば、それが本教学をベースとした練習方法の開拓という話となろう。
*ステージ内での或神秘的事象に執着すると、時空間内で固着してしまい本天界探訪の理屈から外れてしまう訳だが、その彼/彼女に創造神が力を授け永遠の天国へと引き上げてくれるというのならば話は全く別である。そういう話は完全に検証不能な形而上学的議論であろう。私の学問が指し示したのはインド由来の宗教思想であり親和性が高い。老子にも依存している。
(2024.2.11)
私も、「思想体系を完成させた」みたいな事を以前から言っていたけれども、これは、最近の時代を鑑みて、完全虚妄時代でしょう?仮想空間、AI、種々の欲望を満たす電脳映像と…。さらに、イーロン氏の例だと、彼はテスラだけではなく、頭に何か埋めて、考えただけで端末を操作出来る技術開発の会社を進めているという。自分の体に装着してスペックアップするような感じだが(身体障害を持っていなければ)、なので、昔の思想や修行道を提示する事によって道を示し人生の意義、人間の可能性を再検討して欲しいという、そのような思いよりこのような事をしています。例えば、不動明王尊の絵も日本では色々あるが、ゲームなどもあったのではないかな。不動尊もゲーム空間に出てきたり何がなんだかさっぱり分からなくなって、目を使わずにスコープに頼る等、訳が分かんない感じ。出てくるゲームも恋愛シュミレーションゲームかもしれんよね?(それは現状では無いと思うしまず需要がないだろう。「この恋を成就せよ」とかのセリフで)
完成させたどうこうと言ってるけど(自分でそう思っているだけ)、昔の偉人より私が頭がいいとか才能がある訳じゃないよ?昔は何も情報が無いし本を探すのも骨が折れる。書くにも墨で紙もない。それに、今現在にせよ、隠れている聖者、聖者に近しい方などは、私が書けるのにそれを書けないはずがないので、めんどくさいので書かないか言わないだけだ。事情があってしない等。私も被害に遭わなければ監視牢獄みたいなのは真平ゴメンだ。私はそう思うね。欲がないから(なくなるから)、まず世間で評価されて社会的に尊敬されたい、とか一切思わなくなるんじゃないかな?、それに、高野山大学だったので真言宗や大乗仏教を否定したが、私が合っているという前提で、修正して来なかったので出来る人間が居なかったし今も、例えば真言宗には全然居ないのだ、とは限らんだろ?、そんな事言ったらめんどくさいでしょ?まずもって周囲と軋轢が生じる。宗では絶対的な存在なので「お大師様がなんだって?」みたいになるでしょ?「修行させてもらってありがとうございます。このまま死のうかな」とお思いになっても、何一つ不思議ではないのです。勿論、そういう方がその組織で出世して一番上の階級付近に居るとも限らんだろ?一般人の感覚とは違う。「でもなら皆の為に修正したっていいじゃない?」と思うかもしれないが、それを見て勝手に悟るのが学習の一環だ、と思っているかもしれないだろう?一々そんなこと言うまでもないとか。もっと状況を強烈に言えば、「聖者なんだから日本の警察庁や政治家をどうして何とかしないの?」とか言われたら「すいません。知らんです」となろう?勿論、世の中には愚僧や僧になりすました詐欺師もいる。
(2024.2.10)
欧米圏だとキリスト教文化はさておき、古代ギリシアに円錐を持ってやって来たみたいに受け止めて貰えれば、と思います。私もやられそうだし、異端審問とか魔女狩りというのは本当に良くないですよ。議論が死んでしまうからね。宗教というより政治的でしかないですよね。
注)あと、注意点として、竹刀は手入れをしたり適切に買い替えたりしないと、劣化損傷して折れて相手の目に刺さったりと、最悪死亡事故に発展します。貧乏で仕入れた場合、もったいないからと同じやつをずっと使い続けると、竹が腐ってこのような事故に繋がる危険性に留意して下さい。それならば木刀の方が一人で素振りをして末長くずーっと訓練に使用出来ます。竹刀は消耗品です。人剣は、剣道で考えると非常に安全なスポーツで、ボクシングのように脳にダメージが蓄積して死亡事故に繋がるというような話は聞きませんが、ほとんど無い稀な死亡事故の例としては、このように竹刀の手入れ不足で、通常は自分や相手に竹刀のささくれが刺さる程度ですが、程度と言っても目に刺さったり入ると大ダメージで最悪失明します。そういう風に竹が折れて竹刀が相手の目に突き刺さって死亡させた事故が1件記録されていたかぐらいだと思います。ちなみに、剣道での怪我で一番多いのは左足のアキレス腱断裂です。
人剣は、剣道は日本のイメージですので、基本見た目でも剣道との違いを出したい所です。このように剣道も見た目痛そうですがそこまででもないです。それよりも全力でやるという前提だと、キックボクシングとかの方が遥かにダメージを受けそうです。準備不足でムエタイのリングに上がると、そのまま打ち所が悪くて(ガードも甘いので)殺されそうな感じです。宗教の修行としてはこの点がとても都合が良いのです。
勿論、先の例のキリスト教の方が良いというのならば、当然選択自由なのです。
「大学」の設計プランがありましたが、なんにせよ、Iシステムより都は栄えると思います。街の修行道場も決して軽んじてはいけません。
(2024.2.10)
比較宗教学から欧州の宗教を考える。
「復活」の思想について
有名なキリスト教の、最高なのかは分かりかねますが、彼らの重要な教義に「復活」があります。先の教学を参考に考えてみると、「神から与えられた神秘・奇跡」という話になりますと、それが本当に信奉する創造神等から与えられたのかどうかはさておき(判断を保留し)、拡張円錐の理屈で考えると「神に与えられた奇跡」なので”時空間内での出来事”でして、この解釈からは逃れようがありません(確かに、永遠の天国のような場所に行って奇跡を受けるのかもしれませんが(とは私は思わない)、ここではそう考えません)。そして(学習によって記憶している宗教前提によって)神による奇跡を受けたと認識する主体が存在します。その後はしたならば「復活した」として生活を送る訳ですが、円錐からすれば、老子の考えの方がエネルギーの理屈に合う。老子の教えには「神秘のビジョンを排除する事が出来るか」というものもあります。
自分で神に導かれたのだと思い込んでいるだけで、死んでみたら(インドの思想のように)一般人と大して変わらず輪廻転生してしまう、という事もあるのかもしれませんね。「神に選ばれるのを待つ」という風に受け身で、かつエネルギーの集中している場所も思想的に外しています。比較宗教としては、おそらく最高教義周辺までを想像して欧州の宗教を外している訳でして、私的にテキトーではない。神からの奇跡体験を主張するならば、まずこんなに沢山人間が居るのに、何故絶対神に選ばれてしまうのか?と、謙虚に考えなければならないかもしれません。生まれた場所からの学習により蓄積された情報が引き起こした虚妄迷走の類かもしれません。
このように言われたら欧米の諸君は失望するかもしれませんが、空海のように「自分が正しいので自分が仏陀の解釈だ」と絶対的に決めつけてしまってはならない。階層的な天界などの話より、インドの宗教の方が私としては自分の理論に合致すると結論しています。
*先に「私は"無から"とは言っていない」と申しましたが、今物理学の方で話題に取り上げている「ニュートン第三法則拡張」をさらに宗教円錐領域に、心の領域に拡張すると、老子の説く”無”が0次元と何かしら関係があるならば、無から力が溢れてくる流れてきた水が谷に溜まる理屈(風水深秘)となります。この解釈だと、無”から”ではなく反作用です。老子の”無”が何なのかは固定解釈せず自分でお考え下さい。老子は万物起点を無としているような印象ですが、それは私の中庸の考え方ではない。老子は無を中(龍樹は空を中)としているのではないか、という意味です。
*確かに、私の件で日本は最低の名をほしいままにしていると思われます。しかし例えば、剣術で考えれば、昔には、剣豪で有名な宮本武蔵などもおりましたし、その武蔵は五大を語っているので、風水盤と相性が良いですし盤に彼の力を取り込みやすいと言えばそうですが、基本的な考え方としては殺刀なので下界方向に力がかかります(本人に)。さらに、剣術のルーツは念流と言われており、名前から念仏や念の力が関係しているのかな?と、資料も乏しいようですが、このように侍を比較宗教の材料として取り上げるのも一興ですが、日本が堕ちてしまったので選択科目としてどうかな?と、残念です。
(2024.2.10)
教学について
『老子』第六章
谷神不死
是謂玄牝
玄牝之門
是謂天地根
綿綿若存
用之不勤
「比較宗教学」では、私部と公部に分けました。比較検討、考究を通じて結果私部が蓄積されていきますが、先程も申した様に、まずは不動明王尊を配置し場を整えることが第一です。
さらに私部教学の基本は「止水教学」と呼ぶものです。止水には説明しましたように色々な意味がありますが、これはどういう意味合いかと申しますと、一言で言えば"練習する"(回転)という意味ですが、比較宗教検討によって「止観」「意識作用の止滅」等の思想に着目します。ここで風水場を考慮します。心技体で、「体」を物質と捉えて、止観にも色々な意味合いがあろうが"時空間が止まる"と解すればこれは物理学で考えれば0次元の事です。次に「技」を考えてみると、先の体と同じ意味合いで整えると、これは「素早く動けるようになる」「剣技が鋭くなる」という風に解します。時間が止まる方向、短くなる出来る方向に技が進むのでこう解釈します。最後に「心」で考えると、やはり同じ意味合いで整えると、"時空間を止める"という解釈となりますが「意識作用の止滅」を考慮します。冒頭で「老子」を引用しましたが、私は"無から"とは言っていない(「三相等位」「中庸」)。老子をここで解釈すると、「体」では確かに時空間"無"にエネルギーが集中していて力が湧き上がってくるように思えます。ここでヨガを「身心柔合」と捉え(体を柔らかくし心を柔軟にする)体が精神に影響を及ぼしまして、これは感覚的にも理解出来ます。宗教領域への拡張円錐を考慮し、空観によって"上下の流動"を得ると(一般的には"有"を見誤ってそこに固着している状態です)、流動を得るとは、動きやすくなるという事だから己が空じれば良いのです。体の理によって(円錐の理屈は同じ)、時空間無から空観体得心が引っ張られる理屈となり(重力作用の拡張)、意識作用が止滅するという理屈です。「時間を止めたい」などと強烈に考え執着するとそれが固着になってしまうので注意すべきです。或イメージへの執着もそうです。さらに、天方向はよりエネルギーの大きな世界ですので、止水によってエネルギーの供給を受ける訳ですからそれが瞑想による拡天へのエネルギーです。要するに、大乗仏教でも「止観」には色々な解釈があろうが、三相の解釈があやふやだと、「無」と「空」を同一視してしまったり混乱が生じます。私は中道を極めた訳では全くありませんので、ご自身で注意して読んでいただきたく、中道の坐禅・瞑想を三相に偏らぬ瞑想という風に理解しますと、「空」「無」「有」相の坐禅・瞑想はそれぞれの特徴を有するはずで、それを理解に基づいてバランスよく執り行えば効果が高いという風に推測出来ますので、先程も申したように、空と無を同一視した状態で混乱したまま瞑想するより、ここを意識するかしないかで違ってくると私は思います。「有」の瞑想というのは、空海が試みていた事に通ずる、要するに不動明王尊を観念する等の有形による坐禅の類と解釈出来ます。しかし、基本的に世人は「見誤った有」に偏っているので、空無に重点を置いた教学が多方散見される、とそう理解します。人剣の練習を通じて、「静動」「柔剛」の理屈を観想しながら進んでいく(静に寄らぬ動に寄らぬ柔に寄らぬ剛に寄らぬ修行)、とそういう理屈です。
天視眼(点視眼)を得る事。これが止水教学の基本理論です。
注)理論としては以上ですが、これは私にも非常に難しいし、私の思想、哲学的に考えている事はこの様です。 参考にしていただければ、と思います。「瞑想でそんな事あるのかな?」と疑念を持たれる方も大勢おられるでしょうが、「”あるならば”、理論的にこうだ」という話です。私が保証している訳ではない。理論というのは個人を超越した存在で、だからこそ理論なのです。当然個人的信頼を得る努力は人間として肝要ですが、「あの人が言ってるから信じる」に終する類ではないのです。
(2024.2.8)
「最新の結論」と申しましたが、以前と変わり映えがない印象を持たれたかもしれません。しかし、例えば、インドのジャイナ教とヒンドゥー教と南伝仏教を比較して優劣を論じるなど、簡単に出来るものではない。大乗仏教に関しては、真言密教だと空海に依存しておりますので、「こちらの方が正しい事を言っているのでは?」という宗派を下に位置し貶めているので、それが契機となり、見下すような気風が発生してしまうので「(大師に同調して)下の階梯で全然話にならんな」などと、日本の大乗仏教に関しては、日本以外にも影響するでしょうが、私の見解は意義深い事です。
以下「弘法大師論」として
私見ですと、弘法大師は、心底、南方仏教系は法に執着しており、何を言ってももうダメだ。ここに行ってしまったら(大乗の)上の精妙な見解に辿り着けなくなり、とても危険な場所だと考えていた。頭打ちになってしまう。自信が無いのに騙して、民衆の支持を得たいが為に虚勢を張っていたのではなく、自分の理解に絶対的な自信を持っていたと私はそう思います。ただ、無批判に中国で密教を引き継いだというより、大師自身咀嚼して確信していた。だからこそ、「どうして理解出来んのだ?凄まじい法に対する執着だ」などと考えていたのではないでしょうか。龍樹の空論を念頭に、科学的知見が乏しく現代の原子論も存在しない時代であり、大師は「法への執着は良くない。空観が甘い。大乗を認め唯識か唯識でないかを考える方が上の階梯だ」とそういう思考回路です。
くどいですが、宇宙中の惑星(自身にも)には統一的な重力の法が有り、そのようなエネルギーは個人の識の産物とは思えません。当時はアメリカ大陸さえも知らないのです。
なので、虚妄迷走しているので、学習する際には注意が必要です。
/以下参考 『ビギナーズ日本の思想 『空海秘蔵宝鑰』 加藤純隆 加藤精一 訳』(角川ソフィア文庫)
p109-110
…真言行者は次のように考えるべきです、声聞・縁覚等の南方仏教の人々は、人間の心中の神我とかアートマン等の霊魂は無視する、つまり人執(人の心には神から与えられた霊魂が宿っていると信じている執着)は破り棄てていて人無我を得ていますが、まだ四大とか五蘊とかの法は存在すると考えて、法執(心の中に霊魂は無いとしても、人間を形成する五蘊等の法は実在すると考える執着)を捨ててはおりません。つまり彼らは意識を浄めることだけは知っていますが、その他のことを知らないのです。…
…声聞や縁覚の道を進む人々は、実際には存在しない、まぼろしの城を出発して、自分だけはこの世を超越したと思い込んでいます。しかし中には昔ほとけを信じていたというご縁で諸仏・菩薩の加持力(ご加護の力)を得て方便によって大乗への道に入ることもできますが、…
p111
…地獄に堕ちてもはい上がって、しまいには仏の境地にまでたどり着く可能性はありますが、二乗地に堕ちてしまったら最後、仏となる道は一切遮断されてしまいます。仏陀は自ら経典の中でこう解説しておられます。寿命に頓著しているもの(長く生きたいと願っている者)にとって、首を暫られると聞けばそれは最大の畏れになりますが、菩薩にとっては、声聞地や辟支仏地に陥ると聞けばそれは最大の畏れになるのです>」と。
/
/(『秘蔵宝鑰』コメント)
『秘蔵宝鑰』より、上の太字にしている部分に着目してみると、この南方仏教の次が第六階梯の唯心です。五蘊の「色」が物質ですので、当時の原子理解程度を察すると、「色」肉体や惑星の重力法、電気力等の存在を理解していないと結論出来ます。また、二乗地(南方仏教の地の事)に堕ちたらこうだ、と「仏陀が言っている」とまで言っているので、現代で言うと、タイやミャンマー、スリランカの人々は二乗地に堕ちてしまったので、もはや道が閉ざされてしまったという話になります。確かに空海の才能には凄まじいものが有り圧倒されますが、このような事を軽々と書くとは、仏陀は空海の時代には既におりません。その経典が「仏陀の解説である」と決めたのは空海です。
ここまで言っておいて、現代の科学知見からしてみれば、物体の法則有るだろ?となってしまい、城は重力で曲がるのでまぼろしではない。ゆえに、仏教に興味がありそちらの方に進学したいと思うのだったら、信が無いところから何かを拾おうというのなら話は別ですが、寺の運営や説示、修行したい、その他諸々の利益を考慮しているのならば、新興仏教を除いて、現状では南伝仏教しか選択肢が無いのでは?と思います。
*「寺とか宗派で」という話でなかったら、大学で原始仏教の研究の方が、本例の空海の『秘蔵宝鑰』を研究するより安心です。日本の例ですと、南方仏教とか、あとは有名な原始仏教学者の故中村元氏でも囲って瞑想団体を立ち上げる等の方が、「じゃあ大乗を否定して作ろう」と新興仏教宗派だと悪い団体だったらニュースで流れるような話になるので心許ない(勿論各人の自由ですが)。唯識派は良くないと思う。だから、瞑想したら色々な世界が”何かが見えたと仮定しても”、それゆえに、現象世界は識の顕だと結論した。当時のヨーガ行者とか瞑想派の一部が唯識を主張していたのだから、何にせよ私の物理の理論と合わないし、物理でも大きい世界の話が出てくる。なので、現象世界の理屈を把握出来なくて唯識と結論付けたのだと思うし、こう考えると上の世界へのロマンがあります。私はこの道に関する探究の自由航路を後世に残したくて、修行権や道場の設営を語っているのです。まとめると、「唯識派」の価値とは「どうしてそんなに間違っている事を、常識一般人の感覚から大きく外れた事を彼らは熱心に主張したのかな?」と、考えさせる点にあると思う。
完全に、大きく間違っていると「学問の徳」がその分だけ乏しい理屈となります。当然「修行の徳」も影響を受けます。さらに、布施で運営しているので熱心な人々から叱責を受けてしまい、「あなたは相当教学に詳しいだろうが、この点をどう思っているのか?」などと、めんどくさい事になりますし説明責任からは逃れられませんので、だがしょうがない。檀家さんもそうだし、大体学習開始時にこういう話を聞いて了承してそこに集まったとは限らない。そして、そういうのを対処する為に、第八、九、十の織はこうだ、とか何か言わないといけないのです(通常だったら、修行の段階が至っていないので分からないのかな?と優しい態度で接してもらえる所を、相手が怒っていたら「分からねーじゃねーだろ?ホントに大丈夫なんだろうね?」みたいになります)。なので、あくまで仏教の方向に進学したいという事例ですが、比較宗教論を参考し、ベースを(学位、在籍寺などを)合っていそうな方に置いて、例えば今回の例では真言宗ですが、真言宗に興味があるのなら自分で勉強するというのがベターです。日本では大乗しかないと思いますが、比較論を参考し軽々と決めてはいけません。人生の重大事です。布施を軽く考えてはいけない。ビジネスでも常識ですが、金を払う人を甘く見てはいけない。学生だと分からないかもしれないがおっかないです。
/(コメント ここまで)
弘法大師の売りは何だったのか?
大師は他の宗教よりも仏教を上位としていましたが、南方仏教は以上の理由で、その上が大乗仏教という格付けです。真言密教は当時の中国からの「最新の仏教」という話ですが、その他の大乗諸派よりも優位性の一つとして、「真言密教は悟りを得る速度が速い」と宣伝していた。そして、真言密教は五感に訴える物を多用します。つまり、有形の力を助力とし悟りを得る速度を上昇させよう、という狙いではなかったかと、私はそう思います。有名な印契も「形」です。
確かに、これは理に適っていると思える部分もあるものの、提示されている雑然たる膨大な分量に己の立ち位置を見失ってしまう恐れも十分あります。ましてや、上のように、基本的に虚妄迷走しているのです。なので、私なりに整理させて頂くと、
形というのは、例えば、サッカーでいう「フォーメーション」の事です。4-4-2
その形には特有の「力」がある。これが形による力です。そしてその4-4-2のシステムに何が何でも執着し凝り固まってしまったら良くない事も想像出来ます。又は、剣道の剣道型の事です。〜〜の構えにはその型特有の力がある。さらには、原子の配置表(周期表)の事です。理屈によって並べられた物質の原子の配列には形の力があります。風水の地形の考え方もそうです。地形の利便性、恩恵です。
さらに、ここで教育について考えると、サッカーの例で、昔ジーコ監督がブラジル代表監督だった時に、自由にやらせるスタイルを採用して選手に任せる方針だと観た記憶がありますが、これはブラジルの代表選手という前提があっての話で、サッカーの初心者の子供達を集めて、フォーメーションは自由にと、同じように指導したら要領を得ない。つまり「サッカーの悟りを得る速度が遅くなってしまう」という理屈より、理に適っている部分もある、と先ほど申したのです。
密教の印契について考えてみると、例えば「剣印」は指で剣の形を作りますが、密教がどのように考えているのかはさておき、一般的にはこの指で作る形には剣の「形」としての力は無い。シンボルに留まります。剣の構えの型のような形にこそ実利として、形の力が有ると言える。実利と言っても弘法大師の時代には剣といえば侍の日本刀でしょうし、今だと日本では剣道を連想しますが、当時はより殺傷を連想するに違いありません。形による力を修行の助力にする訳だから、その形に力が有るのかどうか、どのような力なのかが重要です。
ゆえに、空海の思惑を解釈し有用と思える部分を抽出しますと、「不動剣印に剣の型を還元させ意義を力を持たせる事」が、修行に関する見解としては第一歩です。
不動剣印で不動明王尊を表す。シンボル。指で作っても象徴にとどまり、又は日本刀等を連想する。智剣と言ってもピンとこない。
殺傷は不動明王尊に合いませんので、竹刀でなくとも、不殺刀を用います。このように考えると智剣と言えます。
*真剣を奉納する場合でも、戦国時代に実際に戦で使用した刀などは奉納に不向きです。
修行と言っても難しく考える事はない。人剣なので、不動明王尊を形より選択した後、形の意義を考える。どのように配置するのか、祀るのか、不動尊から力を引き出すのか、を検討するのがまずは第一歩という意味合いに捉えてもらってよく、以前にも示しました。例えば、「炎を焚いて、その前で素振りをしよう」というのも、立派な考案なのです。風水場を参考するとよい。そこには尊格に対する礼儀と熱意がある(その場合、炎を焚いてその前で素振りをする施設を有する練習場所を確保しないといけないから)。
(2024.2.6)
以前に載せていた「比較宗教論」ですが、最新の結論としては、物理学を比較宗教学の一選択対象と位置付け、これより、アジア地域で優勢だった大乗仏教系はほぼ全て間違っている、という結論に至ります。
私の大乗仏教の理解は、大乗仏教というのは「龍樹」の理屈を礎としてます。つまり、龍樹がダメならほぼ全てダメで、「ほぼ」というのは私は大乗仏教を網羅していません。
私が何書か確認した所、まず昔なので、原子論について論争が起きている。今では原子は常識的に定着していますが、「原子など存在しない。4元素によって世界は構成されているのだ(この主張が大乗仏教の主張だと言っているのではなく)」などというのが昔の理解です。
『密教・自心の探求 『菩提心論』を読む』(生井智紹 著 大法輪閣)』p249
には、ナーガールジュナ(龍樹とは別人のようです)の『菩提心註解』(『菩提心離相論)』)の訳が載せてありますが、【解説】によると、
「聖者流のナーガールジュナの作と見なされて、インド後期およびチベット密教ではもっとも重要視された菩提心修習論書である。」
とあります。なので、密教系では重要視されているのだろうということが分かります。ちなみに『菩提心論』というのは真言密教で何度も頻繁に登場します。弘法大師も重要視していたようです。
本書のp254 には(毘婆沙師批判)が載せてあり、これはナーガールジュナの名前で出しているし、当然龍樹を念頭に置いたものです。p255には原子、今の原子の感覚ではない、「極微小」に関する記述があり、それに関する毘婆沙師との論争を念頭に置いています。
「極微としての色形は実在しない。また、感覚器官も実在しない。行為器官(karmendriya 作根)などというものは、全く実在しない」
↑「karmendriya 作根」というのは横に置いておいて、色形の色に関して、光子には色がないと言っていいのかな?と、思います。
「極微としての色形が感覚的認識をもたらすのではない。それら[極微]は、超感覚的なものであるから。集積することによってそれら[の極微]が[感覚的認識を]生起させるとするなら、その集合ということも認知されない。
↑光子の集積が認識を生起させます。間違っている感じですが、次で言いたい事がはっきりします。
「各方位をもって分割するならば、[最小の分割不可能の]極微といえども、部分を有する事がみられる。およそ部分をもつものと考えられるもの、それがどうして極微として妥当しえようか。」
↑三次元方位がどこまでも崩れないという理解です。つまり「極微小」というのは部分を持たないものの事なのです。
*物理で言及した限界時空は各方位が未分化です。
そして同著p256では(唯識派批判)とあるので、このナーガールジュナは唯識を否定しているのでしょう。
今までのことから、当時は現代の原子や素粒子を知らないこと。ここが重要です。極微小の観点から見ても自性が無いと言っているのです。これを「原子論を否定した上での空論」と表現出来ます。
「原子論を否定した上での、極微小の観点からの空論」(当然、私の感想です)
唯識大乗仏教系 … 自分のものだと思っている部分でも自分でそう思ってるだけ。仮設にすぎない。どこまでも小さく分割出来るし、自由に分割再編したのを自分としてもいいけど(相対性に通じる考え方です)やはり仮設に過ぎないよ。そしてそれは夢と同じで実体が無いよ。外界は識だよ。際限なく続ける分割が実体の無い煙、ビジョン、識に行き着くようなイメージ。その自分は関係性の中で成立し切り離せないよ。
唯識ではない大乗仏教系 … 自分のものだと思っている部分でも自分でそう思ってるだけ。仮設にすぎない。どこまでも小さく分割出来るし、自由に分割再編したのを自分としてもいいけど(相対性に通じる考え方です)やはり仮設に過ぎないよ。際限なく分割を続けても、同じく仮設でしかない。でも、唯識だとは言っていない。その自分は関係性の中で成立し切り離せないよ。
「時代が進み、原子論を踏まえた上での、極微小の観点からの空論」(当然、私の感想です)
基本的には上と変わらず、クォークもまだ分割出来るのではないか?、どうしてそれが最小分割単位だと分かるのか?と、教義上の整合性を取っていたんでしょう。そして、もしそれが”仮に最小分割単位であったにせよ”、確率的存在とか、二重性を鑑み、まさに周囲から切り離せないではないか。いやもはや分割の単位なのか?自分(自性)などどこにあるのだ?、という論法だと思います。量子確率存在を唯識風に解釈するとかです。
以上から、人空法空(大乗仏教)の観点から、法が空と言わないのが毘婆沙師です。極微小つまり原子論、光の理論を鑑み、”光速不変原理などの法は有りますし、その法は極微小を示すもの”で、限界時空なので「有」です。感覚的にも、「ブラックホールの超エネルギーが識によって生み出される」「宇宙中心拡大原理は識の産物」と唯識論はおかしいですが、その一般的なおかしい感覚が正しく、そのまま”唯識論は間違っている”というのが私の所見です。
なので、弘法大師がダメならもう高野山も苦しいだろう。と申したのです。私は大学で勉強させていただいただけで、高野山の宗教と何も関係はありません。「説一切有部」の方が、「実体が無いけど(空)、私は一切有を説く」のように聞こえ、龍樹より全然印象が良いです(毘婆沙師の評価を確定したわけではない。あくまで受ける印象の話)。仏教では常識ですが、龍樹は徹底した空の論者です。繰り返しますが、大乗仏教を評価する際、ポイントになってくるのは「原子論」の彼らの解釈です。大乗仏教を参考する場合は、まず私の比較宗教学の所見を念頭していただくと、見方が広がります。というより「原子も存在しているし、光速不変原理ではないのか?物体加速制限の法がある感じだが、どうして唯識なの?…法が有る感じですよね?」と、科学と衝突している印象です。法が空だと言い張っても説明しないと(出来ないだろうが)ダメ。確かに夢の中では空を飛ぶ場合もあるので法は空です。
比較宗教論の評価としては、大乗仏教系統は一切智(知り得る所の全てを知り得た)とは私には思えません。
「修行道に関する見解」
「「出家制度」をどう考えているのか?」
現代はビジネスの時代。つまり在家、出家というのならば在家が殆どです。ゆえに主に在家修行道から検討議論すべきで、文武修行の観点から、学校又は職場から仕事後に通える道場の普及に重きを置いています。日本の例ですと、「修行」という事に関して言えば、出家するならばどこか有名な寺、宗派の総本山等に出家すると思いますが、各地近所に散在している寺に仕事終わりに通って継続的に修行するが在家者である、という慣習はあまり無いと思う。「文」に関しては大学もあるしネットも普及しています。「武」の方は、スポーツや武道で行われている練習は、学生なら毎日、成人後は週に1〜数回通う程度で、このスポーツ等の練習場を環境調整してそのまま修行道場に置き据えるイメージです。調整とは宗教修行の理屈を練習場に入れるのです。これは継続性の観点からも優れています(寺には来ないし受け入れもあまり無いが、スポーツ・武道等は成人後も人によっては熱心に継続的にやるので)。ビジネスの引退年齢になると老後の年金暮らしという事になりますが、今まで通っていた道場から出家者用の道場へと変更出来るような、修行権に基づいた環境整備が重要です。勿論、年金暮らし後も在家者用の道場に通い続けてもいいし、若い時から出家者用の道場に通う事も可能です(その場合他の就職が出来ない)。自由であるべきで、個人の意思を尊重するのです。出家者の道場は性別の区分けを設けるべきです。
「己の創作類の観点から修行道をどう考えているのか?」
創作の種類によっては修行道と相性が悪い気がします。しかし、私の考えには「欲望の力をそのまま修行の力にする」という考え方があり、世間という場所には欲望が渦巻いているのが自然なのです。つまり言うなれば、巷間に潜む力をそのまま修行力に転換するという発想ですが、欲望といっても世間で好ましくないとされる、倫理的ではないとされる範疇の欲望力を意識的に利用し転換するという意味ではありません。例えば「男女の性の力やポルノの力を修行の力としよう」と考えたにせよ、そういう宗教団体もあるでしょうが、社会において好ましくないとされている行為に着目し、その欲望力で導くという意味ではありません。なので、私が創作で示しているものは、社会一般的には受け入れられるものでしょうから、このように考えると、チベット仏教の仏像に見られるような「和合仏、歓喜仏」というのは、一般人でもポルノや風俗関係者でなければ、社会倫理的にこのような状況を人に見せるでしょうか?まして、仏がとなると、和合仏を製作し示すという行為は「社会倫理を破った欲望力を修行力に転換しようとする試み」と考えられます。着目している欲望というのは、例えば、ファッションのアイテムが欲しい等、そういう欲望で、そこには物作りの職人の道(アイテム製作)もあるし、モデルの道などもあります。しかし、インドでは洋風のファッションに対する規制が強いように思われ、ここで、強烈に洋服の魅力、洋服を欲する欲望の力をもってインドでの修行を検討する、というのは「社会倫理を破り欲望力を修行力に転換しようとする試み」に該当します。社会的に女性はインドの服装の方が好ましいという倫理観があるからです。ヨーロッパだと勿論問題ありません。