人権学
(2024.2.28 〜)
以前に申した事をまとめておきます。
「人権学」について他の学問との関係性を意識しつつ基本を記しておきます。
人権とは何か?それは読んで字の如く「人間としての権利」です。権利は二人以上の動的な生命体が存在する場において自然的に人間に意識され発生します。動的な生命体とは要は動物で、動くという意味においては人喰い植物も含んでよい。二者以上存在する状態環境下で己の利益擁護が人権概念として結実します。ここに自分と動物しか居なかった場合はどうでしょうか。話し合いになりませんので、動物に躾けが通じれば良いですが、ましてや肉食性の動物だと人間側も武器などを使用して身を守らなければなりません。
自分と動物のみの場合は動物の掟に付き合わされますので、これが動物界の法「弱肉強食の掟」です。人間は他の動物より理知的な生き物ですから、相互利益保護推進の観点より「弱肉強食の掟」から脱します。これが人間としての権利「人権」です。ゆえに、人権の根本部には財産権、生命権が設定されます。もともと己が所有していたものを保持する権利、何も持っていなくとも生命を有しています。弱肉として食われない権利です。
*つまり、法律の「法」よりも「人権」の方が発生が先です。
/2024.6.24 記
「弱肉強食の掟」とは言っても、同種食いは動物的本能より発生しないしにくい。動物界でもその意味では人間と同じではないか?と思われるかもしれないが、「弱者の所有する肉を強者が食わぬ掟」という事。動物には餌の所有権など無いし同種の強者にも奪われる。テリトリーの奪い合いにより、食う訳ではないが殺される場合もあるのは人間も同様である。所有する肉に己の生命・身体も含まれる。
動物と比して、所有、財産に関する高度に理知的な裁量が、人権と呼ばれるもの(「私たち人間じゃないの」)の起源です。又、人間はその知能より、同種・異種の設定をより複雑に行うので、「(ひっそりと暮らしている連中なのに)自分の村以外の者は奴隷にして逆らったら殺しても良い」など、この場合は村以外の者に弱肉強食の掟を採用している。村の犬は人間に準ずる存在であって殺してはダメ、餌をやって面倒をみること、というのは人間以外の動物に同人間種の掟、人権を拡張している。動物は通常他種をペットにしない。
人権の最大拡張とは、人間があらゆる生物へ人権拡張させる事である。
/2024.6.24 ここまで
【人権の木】
二者以上集まって人権が発生
人権 ー 財産権(生命権)
「財産権」という言葉をもっと厳密に定義しますと、財を産む権利という事ですので、財産を増やす(+)、逆に財産を処分する(ー)権利も考慮されます。上の財産権(生命権)が+ー側にも分派するという理解でよい。ここで、上の財産権(生命権)は非拾非捨方と明確化される。捨てるでも拾うでもない、元より保有していたものを保持する権利。互いの利益保護上、人の持ち物を盗むのはいけないよ、という事です。ゆえに、この方の財産権を所有権としてよい。例えば、親から譲り受けたものや、意識しなかったがいつの間にやら自分の物であった場合等、繰り返しますが、上の「財産権(生命権)」が生命権を含む「所有権」という広い概念へと拡張されると同時に、生命を維持するには食料が必要なので狩猟等概念より+ー側へ財産権が拡張されたという理解です。
【人権の木】
人権 ー
拾方 財産権
非拾非捨方 所有権(←財産権)
生命権
捨方 財産権
狩猟によって得た動物や、採取した木の実を何故己の物と主張するのでしょうか?それは自分が労働によって得た対価物だからです。労働の影(対価)や自己からの派生(出産)の概念を木に取り込みますと、
【人権の木】
人権 ー
拾方 財産権
労働権
出産権
非拾非捨方 所有権(←財産権)
生命権
捨方 財産権
となります。この三方による「人権の木」を考察していくのが、本人権学です。
政治学(政治思想)を考えると、二者以上集まった段階で決まり事(人権)が発生したので、その時に政策円が生まれる(政策の発生)。獣などが己の命を狙って襲って来る際には敵なので、武の円も生まれます。テリトリーです。遠く離れた場所で動物達が捕食を行っていてもテリトリー外ですが、自分の生活場で獰猛な獣が小動物を捕食していた場合、「食べられたのは自分ではないから」と看過出来ません。次に狙われるのは我が身かもしれないので、その獣を縄張りから排除します。
「弱肉強食の掟」を超越した人間の法「人権」を、人の権利なので人の間だけで適用させようとするのが人類史的に多勢派です。この「弱肉強食の掟」の超克を他の動物類までも法をゆき渡らせんとする働きかけは、菜食主義、宗教学と関係があります。「人間の法(人権)による世界統治」と考えられなくもありません。私達は動物類には弱肉強食の畜生界の掟をもって接しているのが現状であり、古来よりその様です。
このように考えますと、世界的に影響力がある『旧約聖書』に見られる「神から授かった人間としての権利」「神から与えられた動物類の支配権」を土台に有する人権の思想とは根本的に相違があります。
二者以上集まったら自然発生する権利なので、「政教分離」に関しても矛盾点がありません。
ここで、自由権について考えてみよう。自由を得るという事は、前提として、物質的・精神的な不自由な状態を主体に強制する束縛が存在するはず。つまり「自由を手にいれる」とは”そこから逃れる事”に他ならない。不愉快な物なら捨てて(捨てるとは、自分と物との距離が管理外まで離れる)、土地なら移動し、人間関係なら捨てる、といったふうである。
【人権の木】
人権 ー
拾方 財産権
労働権
出産権
非拾非捨方 所有権(←財産権)
生命権
捨方 財産権
自由権
西欧の、王権から市民権を奪取した革命闘争を考察すると、当初、王権に対して、そこから逃れる事が出来ない隷属状態に陥った訳であるから、捨方の自由権を行使出来ない状態。現状打破の為、自由権から派生した革命権を行使する(絶対王政を捨てる)。革命成功によって、三方への主体(民の)の機能不全が解消された。つまり機能不全を解消するのが革命です。
【人権の木】
人権 ー
拾方 財産権
労働権
出産権
非拾非捨方 所有権(←財産権)
生命権
捨方 財産権
自由権
革命権
政治というのは、人が大勢集まった状態において、個々人が有する木(権利)を調整する。個々人はその集団への所属を了承もしくは強制される、という意味合いです。木が集まって林となり森となりますが、森を見て重んずる木を見ない軽んじるのが、例えば、国家主義、全体主義、超自国家中心主義という話にも繋がります。
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以上の様に、人権の木をもって権利意識を高揚させ、人権教育にも最適です。あやふやであった「極度の貧困状態」も、「お前はただ貧乏なだけだ」「乞食のような者は世界中にいくらでも居るのだ」というような言説に対して、自信を持って(国家等に対して)財産権の侵害を主張します。
何をもって財産権が侵害されているのか?その判断指標はと申しますと、自分が若年期に所属している組織(木が属している、つまりその国家、自治体、社会)内において、自らが「栄達の機会を得られるか否か」が判断指標になります。今の時代で言うと、大学を受験できるのか、その為の準備内容を適度に得られるか、役人の登用試験を受けられるか、企業への面接採用試験を受けられるのか、議員に立候補出来るのか等です。王政や貴族階級というのは主に血縁に基づき下の人間を完全に締め出します。ゆえに、締め出された側は財産権の行使が出来ません。機会が無いので財産を増やせません。